川柳・都々逸・俳句おすすめ書籍リスト
上手な句の作り方 基本ルールを知ろう
都々逸一覧
川柳コンクール情報

「十七音の可能性」(岸本尚毅/KADOKAWA)感想レビュー 十七文字という極めて短い俳句で表現できる世界を解く一冊

2023年4月8日土曜日

俳句 本の感想

t f B! P L

十七音の可能性

2020/8/11発行の「十七音の可能性」(岸本尚毅 (著)/KADOKAWA)です。
角川俳句ライブラリー 十七音の可能性

この本は以下3つのこだわりをもって書かれています。

・個々の作品を一字一句にこだわりながら、なるべく詳細に読むことにつとめました。一語一語をつぶさに見ていくと、秀句には秀句ならではの言葉の仕掛けがあることが分かります。

・俳句表現の間口の広さを反映すべく、なるべく多様な作品を取り上げることに努めました。

・俳句の多様さが歴史の所産であることに意を用いました。

第一章:近現代俳句の多様化

十七文字という極めて短い俳句はどこから生まれたのかにまつわる話が書かれます。今、私たちが俳句と呼ぶ句(季語を伴う五七五の定型詩)は、芭蕉の時代には発句と称され、一句が独立して創作、鑑賞の対象となるものの、本来的には連句の一部品としてみなされていました。そこから正岡子規、河東碧梧桐、高濱虚子、水原秋桜子などを経て、現在の俳句に到達しています。

第二章:ひらめきの瞬間ー比喩の達人

言葉がイメージを喚起する力は強大です。この力を別の事柄の類推に用いる表現技法が比喩です。読者の想像力を利用し、物事を直感的に伝え、一言でパッと分かった気にさせることが出来ます。

たとえば「美しい夕焼けの雲を描写したい」とき。 「真赤な夕日に染まった雲がとぎれとぎれにどこまでも続いている」と書くと二十八音。

それをもっと短く強くしたい。そういうときに比喩を使います。

火を投げし如くに雲や朴の花 (野見山朱鳥)

夕焼けに染まり、火を空に投げたかのような雲、高々と咲く朴の花。パッとイメージがわいてきます。また、この情景を絵にした場合、イメージは絵の通りになりますが、十七文字という言葉で表現することによって、読者の数だけ自由に情景を思い描くことが可能となります。

第三章:無意味な世界を描く

鴨渡る明らかにまた明らかに(高野素十)

渡り鳥が一羽、また一羽と明らかにくっきり飛んでいく様子を詠った句です。「それがどうした」と言われると困ると著者は書いています。文芸が、意味のある出来事や感情や思想などを描くものだとすれば、この十七文字の句は無意味に等しい。一見無意味な句のどこに心惹かれるのか。それについての考察が書かれた章です。

言葉を惜しむこと、作者の思いをあらわにしないことが、読者の自由を広げ、作品の持つ力を大きくします。言葉のない余白から力を出してくる。情報量が少なく押しつけがましさがないことによって、意識では掬い上げられない「何か」を拾い上げることができるのです。

第四章:俳句と天才

葛城の山懐に寝釈迦かな(阿波野青畝)

天才を感じる句として上記が挙げられています。どこにそれを感じるのかを考察した章となります。「葛城」「山懐」「寝釈迦」など一語一語どういう意図をもって使われているのかが語られます。

たとえば、阿波野青畝のテニヲハの見事さとして助詞「に」をあげています。

「葛城の山懐に寝釈迦かな」
「葛城の山懐の寝釈迦かな」

「に」が「の」であったならば、句の最初から寝釈迦を予期したような書きぶりになってしまう。ここを「に」にすることによって出会いがしらのように寝釈迦が現れるのです。

第五章:俳句における写生の技

読者が読者自身の想像力により、自分の頭で思い描き、自分の目で見たような気分になることが写生の理想です。作者の視野に読者を招き入れるように詠むことがポイントの一つです。その工夫について語られる章です。

第六章:俳句の印象派

正岡子規から水原秋桜子、石田波郷などを経て確立される俳句革命を語る章です。この章の説明は以下抜粋で表現されていると感じました。

-----------(抜粋)
十七音の短い詩だからこそ写生しかない、という考え方は一つの覚悟です。しかしそれだけでは、その時代を生きる人間の自由闊達な自己表現とはなりえない。十七音の短い詩であっても、他の文芸にそん色のない自己表現の手段となりえるはずだ。
-----------

第七章:人間探求派をめぐって

「人間探求派」とは昭和10年代、中村草田男、加藤楸邨、石田波郷らによって確立された新句風、ないしは彼らのグループを指すものです。俳句の主題は人間や社会であり、しかし、季語は必要としている句となります。

「人間探求派」の歴史や考え方、また、季語の位置づけ、感情の語句をどこで受け止めるかなどの説明などが具体的な句と共に解説されます。

人間探求派の加藤楸邨の一句「かなしめば鵙金色の日を負ひ来」
花鳥諷詠的な富安風生の一句「よろこべばしきりに落つる木の実かな」

第八章:短さを極める

自由律、有季定型に対する考察の章です。この章に出てくる短さを極めた自由律俳句を一つ紹介します。

ずぶぬれて犬ころ(住宅顕信)

この作品には季語も定型もありません。しかも九音。なぜ自由律は俳句なのか。それは自由律が有季定型へのアンチテーゼから生まれたという歴史的経緯にあると語られています。

第九章:五七五の変奏ー変則的定形派

音数が余るのが字余り、足らないのが字足らずです。字余り字足らず、句またがりに関する章です。

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉(芭蕉)

芭蕉野分して(八音)、たらいに雨を(七音)、聞く夜哉(五音)の合計二十音の句です。それでも読み心地がよい。このようは変則的な句を多数取り上げ、解説がなされています。

第十章:言葉が導く風景

三橋敏雄の無季俳句、飯島春子の句について語られる章です。彼らの俳句観は「俳句とは何か」を正面から問うものでした。その問いの答えは、俳句は十七音の言葉の塊だという身もふたもない事実に帰着します。

第十一章:俳句のシュールレアリスム

俳句の言葉による写生は、実際に存在する情景にとどまらず、非現実の事象にまでおよびます。たとえば、河原枇杷男の句は、読者をなるべく驚かせないようにさりげなく、いかにも自然な感じで、読者を非現実、超現実の世界に誘い込んでくれます。

秋かぜや耳を覆へば耳の声(河原枇杷男)

第十二章:戦後生まれの異才

摂津幸彦、田中裕明など戦後生まれの俳人の説明がなされる章です。この二人の作風は異なりますが、共通点は、言葉の塊としての俳句の純度をギリギリまで極めようとしたところにあると書いています。しかし、摂津幸彦の道は摂津幸彦の句が、田中裕明の道は田中裕明の句が、その究極の到達点かもしれない。意地悪く言えば、袋小路かもしれないと言います。それでは、後続の俳人には何が求められるのか?について解かれます。

第十三章:作者の顔が見える俳句

俳句に作者名は必要なのか?について議論する章です。作者からも実景からも独立した十七音の言葉の世界があるという考え方と、作者が見えることによってその作者、その場所特有の匂いを感じることが出来るという考え方。俳句の有り様について語られます。また「挨拶句」「句日記」の説明もなされています。

真面目で少し難しい本ですが、俳句とはどういうものなのか、十七音にこめられる世界の広さ、俳句の本質を知ることの出来る一冊だと思います。

QooQ